2007年04月24日

「バカだなァ」

これまた天野祐吉さんの「バカだなァ」を読む。
こう書いていて最後の小さいカタカナ「ァ」がいい具合になっているのがわかる。
さすが、編集者であり、広告批評を創刊されただけある。
とてもキャッチぃ。

思わず手に取ってしまった。

広告の批判をする前には、
まずは主体のCMや広告が人々の目にさらされているという望ましい前提状態あると思う。

それには、批評されるという(望んでいないかもしれないけれども)広告やCMが
すでにキャッチぃであることになるのだけど

それでその批判本も声を通すためにはキャッチぃの方が断然いいのだ。
なんとなく流されているCMや広告が「商品を売りたい!」という売り込みのキャッチぃさに比べて
批評本は、その批評内容を広く伝えるためにキャッチぃさを身につけているのである。

で、なんで批評のキャッチぃさがすごいかというと
彼らが書いた広告批評の批評をも体当たりで受け取ろうとしているところである。

「飲む前に飲む!」
みたいな。

あ、「飲む前に飲む!」の内容を指している意味は直接関係ありませんが、
なんかその態度に対する意識が似ている点と語調の勢いの点で。

お酒を一杯のむぞーと思って飲む薬でしょ。
だから一杯のむぞーという覚悟があってそれで
その飲む前にこののむぞーの覚悟から薬を飲むような行為に移っている。
先手必勝みたいな。

ちょっと、表現が違くなってきかhったかな。

天野さんのコラムを数をこなして読むと
彼の性格もわかってくる。

自分の子どもに対しては放任主義と明確に書いているのだけれど、
若者文化についてもホーニン主義だと思った。

今の若者は。。
なんといいながら眉間にしわを寄せている同年代を横目に
深夜番組を堪能し、ドラクエに打ち込み、難しい漢字はカタカナにしていってしまっている。

そんな彼でも若者に厳しい一節があった。
学園祭の講演依頼で一人の若者が天野さんに電話をかけて
講演依頼の際に、
「何を話せばいいですか?」という質問に、学生は。
「なんでもいいのでうけどォ、何を話してもらえますかア?」
と反対に聞かれて、普段原稿依頼を丁寧にしている編集者天野さんは、キレている。

編集者であるならば、そういう依頼の仕方では、その場でクビになってしまうと。
「人に何かを書いたりしゃべったりしてもらおうと思うときには、「いまその人に何を言わせたら面白いか」ということを、たとえチャチでも、自分なりに考えてからでなければ、頼むことなどできないハズだ」と。

つづけて、

「学生だからしょうがないよ。

というのではなく、大学生だからアタマを使ってほしいと、
たとえナマイキでもナマニエでも、
自分のモンダイイシキをこちらにぶつけてほしい、」と

そういえば、
この本の第一節を飾るタイトル
「言葉の重さ」というコラムの中に、ご自分が就職面接を受けた時の模様が書かれている。

「なぜ出版社にはいりたいのか」という面接の編集部長に聞かれて
「編集の仕事がしたいのです」とおずおずと答えた天野さんに対しその編集部長は突っ込んで
「なぜ?なぜ編集の仕事がしたい?」と聞くが
たじろぎ、言いよどんでいる若かりし天野さんがいる。
また、さらに突っ込まれる。
「もし編集者になったら、君は、どんな本を作りたい?誰に、どんなテーマで、原稿を書いてもらいたいと思っているのかな」
「そ、それは。。」
またまた若かりし天野はたじろぐ。

「つまりね、自分のなかに、言いたいことを持っているかどうか。それが、すべてに優先する編集者の条件だ。言いたいことを持っていない人間は、この世界にはいってくる資格はない、と私は思っている」

なにも言えず、口惜しくて唇をかんだぼくをじっとみていた編集者は、やがてにっこり笑って立ち上がった。
「ま、君さえよかったら、あしたからでも手伝いにきなさい。いまはわからなくても、しばらくここで働いていたら、自分が何を言いたいかが、きっと見えてくると思うよ」

それから二十数年が経ったという。

その編集部長の言った「編集者として言いたいこと」。
とは、天野さんにとってさきほどの学園祭の依頼してきた学生に言った言葉となっていったのではないか。

著書「バカだなァ」のあとがきには、
「「バカだなァ」というのはもちろん、ぼくのことです。
あなたに言っているわけじゃない。でも正直に言うと、半分はあなたに向かって言っているのです。」

私、そーとーひっかかってます。

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Posted by Eri Kawamura at 00:00 │Comments(2)人間について。

この記事へのコメント

そうか、あのおっちゃんのようなコラムニストには、どうも苦手意識があったけど、こう書かれてみると、なるほどと、うなづくことが多いねえ。
編集者ってのは、作家より一段視線が高いのかもしれないね。モノカキは、なかなか自分を突き放して見えずに、痛がったり、熱くなっちまってるパターンが多いからね。編集者や黒子の仕事は、作品という赤ん坊を引き出す産婆役なんだね。
Posted by junabi at 2007年04月28日 22:02
この言論自由の世の中、たたかれてなんぼだと思うよ。
だってぇ。みんな言いたい事いえるんだもん。(もちろん社会的や、生活の関係で言ってはいけないことも、言いたくても言えない事もあるでしょうけれども、とりあえず、匿名では言えるでしょうという意味で。)

そうだね。編集者は、読者と著者の間にいる人だから、両方の事を考えないといけない。でも「これだぁ!」っていうものがないとなかなか動けないんじゃないかな。黒子は縁の下の力もち的存在かな。主役の「これだぁ!」のお手伝いを「うんこらせ。」と後押しするという意味で。どっちにしろ、どちらも産婆役には違いないだろうねぇ。

もしかして、ちょっと関係があるかもしれないと思って書くけどー。
天野さんは「広告批評」からの出だからね。
批評や、批判という言葉を聞いて、ちょっとネガティブに思ってしまうのは、それは、この外国語を輸入してそれを日本語に変えた時にちょいと誤解が出るような訳にしてしまったということにも関係していると思うよ。記憶があやふやで申し訳ないと思うのだけれど、批判の元源はドイツ語、Kritikクリティック(英語でもいいけど、つまりだいたい同じだからcritic)と聞いたんだか読んだんだか忘れちゃったけど、という節があり。そーいえば、クリティカー(批評家)や、クリティックとドイツで触れると、あんまりネガティブな感じはしない。もちろん酷評とかもあるけれども。みんなあっそう。っていう感じで、一つの意見としてしか見ていない。日本語に「批」ってつけちゃったこと自体がちょっと誤解の元なんじゃないだろうか。なんか咎められている感じの語感が入っているから。goo辞書の批判のところには、3つ意味が書いてあって、その中の3つ目の意味が基本のクリティックの意味な気がする。
”(3)〔哲〕〔(ドイツ) Kritik〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。”
これをみると、まったくポジティブシンキングだよ。

まあまあ。たたかれるっていうことは、それだけなんか引っ掛かるものがあるから、引っ掛かってくるのだよ。まあ、最大の褒め言葉だと思ってぇ。
テキがいるほど、その数だけ味方がいるよ。ただし、テキは対しているから見えるけれど、味方は後ろにいるから見えないからね。あまりひとりよがりにならないように。振り向いたらだれもいなかったぁ。なんてこともあるから。
Posted by bonobono at 2007年04月29日 17:05
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