最近、誰かに助けられたとか、助かったよ、という考え方が多い私。
そして、こうすれば助かるかもと思って行動する私がいる。
別に聖職者ではありません。
助けるとか助けないとか、そういう意識的に思う芯ってなにかなーと思う。
もちろん、無意識的にも「助ける」心で動いていた自分があるはずだ。
でも、それは「助け合い」とはなんか違うなー。
一方的な「助ける」っていう概念。
それって、でも、キリスト教的?
と思うのよ。
なんか、一方的な援助でそれで、相手は見返りを求めていない。
(そうは言うものの、でも、やっぱり、お返しをするべきだと思うのは日本的だろうか)
やっぱり救済っていう概念。は彼らにこびりついていると思う。
だからこそ、この異邦人ものうのうと生きられる環境があるわけだ。
そういえばー。
私は、キリスト教の幼稚園だった。
四恩幼稚園ありがとうございます!
近所に寺の幼稚園があり、しかも同級生に寺の子がありながら。
家にキリスト教的な接点がないのに、あるいは近所付き合いっていう日本の習慣
なんか無視されてキリスト教の幼稚園に送り込まれたわけだ。
幼稚園を卒業してからも、日曜日に教会にいくようなことをしていた。
小学校まで。なんか分け分からなくても、十字を切ってアーメンとか言ってたなぁ。
おもしろいことに、
その後、さまざまな人生をそれぞれ歩んでいる
幼稚園で同級生だった友達とは、なんかねぇ。一体感がまだあるねぇ。
まあ、これはキリスト教のおかげということでもなく、
幼少期に時代をともにしたということが、主な理由だと思うけど。
っていうことは、ちょっとは彼らの中に、キリスト教的要素が入っているわけだ。
こう言語化してしまうとつまんなくもみえる。
とりあえず、ここで、のうのうとしてられるのは、
キリスト教の幼稚園のおかげだったかと。思う次第で。
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