コラムニスト天野祐吉さんの著書、CM天気図 晴れのち雨編を一気に読んだ。朝日新聞、月曜の刊がきたら真っ先に彼のコラム欄を開いていたっけ。
この本にまとまったのは1993年から1995年のものだけど、なぜ今さらこんな時代のものを(すでに90年代もある時代になってしまった)再読する?と思われるかもしれないが、やっぱすごいの。
彼の目の付けどころと、そのCMを見ていないのに全体像がこちらに伝わる解説と、そしてCMから醸し出される世相を笑い飛ばし、しかし最後に読み終わって気づくのはその飛ばし散らしちゃったものをうまくかき集めてまとめているところ。あるいは掃除機のバキュームみたいにきゅきゅきゅっと吸引しちゃっているところ。
これは正に起承転結の典型!
捕らえるところは逃さないシャープな表現力。見開き2ページにきっかりとまとまっている。次のページも次のページも。読み切りながら、私の手と目はすぐに次の項目へ。読み手の心理はとうのとうに捕えられている。
ところで、これがどうしてきゅきゅきゅっと縛り上げられるように私の情熱を感化させているかというと、まずCMという誰でも知っているような素材(全国版のCMでも見てない人もいるだろうし、時間が経ってその内容を忘れちゃった人、あるいは元々日本のテレビを見れないという人もいるのに、コラムのなかで誰でも知っているようにしちゃう説明力もすごい。割と詳細にも描写してないのにですよ。絵の技法で言ったらドローイングの”さっさ描き”ぐらいか)を枠にして、その中に現代という時代性、もっとくだけていえば現代日本の雰囲気をCMという額にはめて見せてくれるの。絵画の鑑賞みたいに。
93年から95年にかけてという時代は、天野さん本人もそのあとがきで、「バブルもがはじけた後遺症」「こんどはドカンと大地震がきて」「オウム台風が吹き荒れた」としているように、日本列島まあいろいろあった年々だ。コラムニストとしては痛烈な批評を含めるには格好の時代だったに違いない。
でも約10年前の話なのに、今の時代性として読めるのはなんなんだろう。10年前というのはまだこう遠くを見つめるような昔ではないのか?この高速情報化社会の時代に?まとめてこのCM天気図を読むと、いくつか彼が気に入っているあるいは気になっているCMが判ってくる。
一つは、日清カップヌードルのハングリー?シリーズ。それぞれの新しい話が出てくるたびに取り上げ、それらをめちゃめちゃほめている。そして選挙のたびにでてくる政党CMについてのあきれた感じ。それはすでに広告としてのCMではないと、CMの意味を取り上げているような書きっぷり。
まあみんなそう思っているかもしれないけれど、こう滑稽に書けるひとはそういないだろう。
それから彼の書はやたらとカタカナが多いのが分かる。それは「バラって書ける?私、書けるんだよ」と言う安田成美のCM(キッコーマン)を受け合いに出した時に、こう告白しているのである。「ぼくは、むずかしい字はカタカナで書くことにしている。ユーウツなんて字を漢字で書こうと思ったら、それだけでもうユーウツになってしまうからである。」でもさぁ。そしたらさぁ。簡単な字の「ニッポン」もむずかしくなっちゃったっていうことかな。ハングリーに羨望する?
あ、これもカタカナですが。
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