2007年11月11日

外林さんの彫刻

11月のはじめに
新聞をさわがせている日本人の男性がいました。

外林秀人さん。
広島の原爆を生き残られた方です。
ベルリン在住50年。
ポツダムに広島の記念碑を立てたという記事です。

記念碑を立てるという行為は、かなり勇気ある行動だと思うのです。
まるでパブリックアートを立てるようなものだと思います。

暗い過去に口をつぐんでいたという彼。
日独センターでの話がのっていました。

その一つTAZより
訳したものを掲載します。
http://www.taz.de/regional/berlin/aktuell/artikel/1/hideto-sotobayashi-und-die-bombe/?src=SZ&cHash=e7fdd60e03

広島ー外林秀人と爆弾

16才で外林秀人は広島の原爆投下を経験した。
この50年間ベルリンに住む化学者が本日、初めてその日について語った。
この悲劇を繰り返さないために。SUSANN HOFFMANNの記事より

日独協会の事務所にある机に向かい外林秀人は座る。
この78才の日本人は震える手で冊子内にある資料を探している。
メガネごしに凝視している。本日木曜日、彼は彼の人生の中で最も悲惨だった日について語ろうとしている。外林は広島に投下された原爆を生き残った者だ。”原爆がいかに悲しくていかに破壊的か、私は人々に忘れてほしくないのです。”と、ちょっとクセのあるドイツ語で物理化学を教えられた教授は言う。28才の時奨学生となりベルリンにやってきた。それ以来ここで生活をしている。

落ち着いた声で彼はこの日のことについて口をひらく。1945年8月6日について“100機ほどの飛行機が早朝6時頃から町の上空を旋回していました。人々は非難勧告を受けていました。後に警告は解除され、人々は勢いよく町に出かけて行ったものでした。つまり強制労働へです。” 外林は当時エリート学校に通っており、第二次世界大戦中も勉強を続ける事が許されていた。彼と母親は市内地に向かった。その15分後に爆弾が投下された。

“何年たっても苦しいですね。そのことについてしゃべるのは”と、少々の間があり、彼のまぶたには、涙がややみえる。“私は当時16で23人の他の生徒と化学の授業を受けていました。きつい光線がきたかと思えば、次いでなんとも描写しがたい轟音が襲ってきました。その後校舎はとたんに崩れ去りました。”外林は爆心地から1,5キロしか離れたところにいなかった。時間の経過と共に、気が確かになると外林は怪我一つなく、がれきと灰の中に埋もれていることを悟った。周りを見回したが、同級生らしいものはいなかった。小さな炎が広がりつつあり、“逃げなければならないと思いました。そうでなければ焼かれてしまっていたでしょう。”外林はそこで思い出に浸っているようだった。我にかえり、“家に帰った時、その日は遅出であった私の父が迎え出てくれました。もし爆弾が30分遅く投下されていたら私の父は中心にいたことになっていたでしょう。”母親の行方で、父と息子は彼女の行方を探しにいった。広島市内に行く途中の道ばたの光景は外林の記憶に焼き付いている。“死んだ子供を腕に抱えている女性、体の皮膚がはげている人々、そこら中に死人。そして私の足を掴んだ負傷者。”具体的なジェスチャーで外林は説明する。

父と息子は母親を赤十字病院で見つけられると思った。そこには何百という負傷者が廊下にも部屋にも横たわっていた。“最後の部屋で母親をみつけました。火がちょうどその部屋に燃え移るところでした。”自転車の荷台にのせて母親を家まではこんだが、3日後に彼女は亡くなった。“でも彼女を見つけられたことはよかったです。私たちには運がありました。彼女を最後まで見届けることができたのですから。私たちはお棺をつくり火葬し、灰を畑に埋めました。”見た目には怪我をしていない友達がその後私たちのところにやってきたが、すぐに髪の毛が抜け落ちたり、歯茎の出血があったりなど放射線の影響で8月に死ぬものが多かった。“そして私たちは引越しました。ここで生活ができるとは思いませんでした。”彼は言葉を探して”広島にいなかった人たちは私たちのことをハンセン病者のように見たものです。私たちは弾劾されました。”しかしながら状況はだんだん緩やかになり彼の家族はうけいれられるようになる。彼は隣町の学校に通い、のちに京都の大学で物理化学を専攻する事になる。

この専攻の選択については、私の経験によったからという訳ではない。というよりもまったくx線について関係を持ちたくなかった。しかし“最後は自分に関わる事にになったのです。”というのは、ベルリン自由大学で研究したのはとりわけ重合体であり、X線ともそこで関連してくるのである。ドイツの原子エネルギーの歴史について彼は日本で本を出版されている。

広島に彼自身一年に一回は行くという。思い出のためではなく、広島の原爆の被害者のために日本が無償の治療を設けたためだ。糖尿の他、なにも健康には障害はない。“私には本当に運がついているのです。”

外林は精神的に充足した人物である。後世になにかを残したく、彼はポツダムの広島広場に記念碑を望んだ。1945年の夏4国会談が行われたこの場所で、当時アメリカの大統領ハリー・S・トルーマンがおそらく原爆投下に命令を下したところである。思い出と警告のための記念碑である。


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この記事へのコメント

こんにちは。ご無沙汰して、失礼しました。
いつもブログは拝見させていただいています。

とても考えさせられる内容の記事をアップしていただいて、
ありがとうございます。
ドイツの新聞からということで、本来は知ることがなかっただろう記事
かと思います。

最近は、昔ほど戦争のことを取り上げなくなった気がします。
今年の夏は、それをよく感じました。

こういった軌跡は大事ですね。
日本以外でもまた戦っている人がいるんだと、
とてもよく考えさせられました。
Posted by りよ at 2007年11月14日 13:17
りよさん。こんにちは!!

いえいえ、こちらの方こそご無沙汰してしまいまして。
ご迷惑(あるいはラッキーだった?)をかけています。

陰ながら応援してくださっている様子
感じながらも書いております。いつもありがとうございます。

そうですねぇ。私はドイツの新聞各社の反応におどろいたのです。まずは。スポニチのような新聞にもとりあげられていましたし、もちろん日刊にも。

いまだ、ここではヒロシマという名は強く、また日本の戦争責任というものに
注目があるのも事実です。

外林さんは、自分への戦いとヒロシマへのメモリーをこめて、
記念碑という形にした方だと思います。
それが公に感化されるのがすごい。
被爆体験者が直接ドイツ語で話されるのもめずらしい出来事ではなかったでしょうか。それだけ、伝わるパイプが太いというか。。

私の訳も変で、またその場にいませんでしたので
状況が伝わった不安ですが。。
Posted by bonobono at 2007年11月15日 03:09
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