2007年03月20日

戦後問題について。

第二次世界大戦へドイツと日本は同盟となって参加したのだけれど、
戦後処理の仕方がちがう。

謝罪をどのようにしたのかというのがテーマになり、

戦争の話となると、ドイツ人とディスカッションになるのだ。
なぜ、日本は謝罪しなかったのかと。それから、学校での戦争のことを扱う授業について。

よく、ドイツ人から質問されるのは、
なぜ日本はしっかり謝らないのか。
なぜ天皇は最高責任者だったにもかかわらず、なぜ戦犯として処刑されなかったのか。
学校の授業でどうしてあまり戦争のことを扱わないのか。

上の質問に、いつもあまりうまく答えられない。
なぜといえば、こういったビックテーマなのに、一般的に日本人としての共通の考え方が固定されてないからだ。

私は、私なりに考えた答えを言おうとするのだが、それこそ、正直にドイツ語でも私はこう思うのです。。。。。(文章つづく)。。という表現をつかうのだけど、私は。。。思う。って、そんな普通の個人的な意見を言う形式を使う時点で、ドイツ人はすぐにうたがってかかる。ドイツ人は断言する。それは悪かった!と。

とりあえず、戦後処理の2つの方法があったのだ。
ドイツのやり方がよかったのか、あるいは、日本の内部の調和を大切にするやり方がいいのか。
この答えを出すのに、急かすつもりはないし、本当のところどちらがいいのか答えを出すべきではないかもしれない。なぜなら、それぞれに、それぞれの事情があったから。

でも、ドイツの謝罪した行為を考えると
これは、懺悔といっしょの行為ではないか?と思う訳でぇ。

自らの過ちを言語化して、償いを乞う。

ヨーロッパの人が個人主義だというのは、
古く、教会にて懺悔をしてきたからという節がある。
なんといっても、自分が犯した過ちを謝りにいくのだ。
神父さんに聞いてもらうと、すっとすっきり。浄められるというので、
みなやってしまったことに対して、わびを入れにいくのだが。
すっとする効果のみならず、あれは、自分のやった行為をもう一回話し、そして
自らの声で聞くというのが、なにか彼らの自我形成になんらかの役割を果たしたのではないか。
というのをどっかで読んだ事がある。

日本人は、反省するとか好きだけど。
それって、内省のことで、外にアピールするようなものではない。
反省は発言ということを必ずしも含んでいない。

高校のとき、悪い事して、反省文っていうのを書かされたけれども。
日本は文章をかかせることで反省を促し、また内省していくっていうのが多いなぁ。
始末書とかも、そうか。

最近では、よく、テレビなどで、会社などの不祥事に
遺憾に思うって発言があるけれど。それってやっぱり、私は。。こう思います。
っていう表現なのよねー。

私が注目したいのは、日本の自我形成について、今どーなんだろうということ。
そして、
懺悔が結果として、ヨーロッパの自我形成をはやく育て上げたこということ。

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Posted by Eri Kawamura at 00:00 │Comments(3)どいつも。

この記事へのコメント

また大テーマだな。これはじっくり時間を作って考えよう。忙しい今は、ちょい、パス。ただひとつだけ。外部ないし他者の存在、さらにその外部、他者をつきつめたむこうに神がいる、自分対神というありかたから、個人主義はでてきたというのは、そうだろうなと思います。アジア圏には他者の存在として、外部に神は、あまり置かないものね。どうしても唯一神との対決は存在しない。天皇制度というからくり自体も、いい加減な政治的工作で、あの昭和天皇に統帥権を制御する力も才もなかった。最初から外野おかれた泥人形だった、というのが実際だろう。もっとも天皇を処刑したほうが、日本の胸の痛みはどこか和らいだ気もする。ああ、おれも気がつけば、私はこう思う、の範疇をでてないな。つづく。
Posted by junabi at 2007年03月22日 08:23
こんにちは☆

確かに、とても難しいテーマですよね。
「なぜ」と言われても、そもそも学校で習った分だけでは、そのテーマについての知識が不足しているような気がします。
だから、ちゃんと答えられないのでしょうか…。

今後の教育体制も含め、私たち日本人はいろいろ考えていかなければいけないですね。
Posted by りよ at 2007年03月22日 10:38
そうねぇ。神という他者が自分の中にいるという、仏教的な感覚(正確にいえば、神は自分の中に存在するっていう考えの、その神って西洋でいう神じゃないのよね。)は、ぜーったい、ここの人たちに理解してもらえないとおもう。つねに、自分とは別物、外にいるっていう感覚であったでしょうから。でも、最近、禅とかヨーロッパではやる事になったじゃない。あれは、もしかしたら、個人主義の延長でなったんでは。とドイツ語の先生が分析していた。自分で努力すればニルバーナ、涅槃の境地にいけるっていう教えは、仕事でも、やりたいことでも、まあ人生において自らの希望を自ら勝ち取って来た人たちにとって、やはり魅力的で、願ったり、叶ったりではないかと。うーん。なんか、それって入り口違くない?と思ったけどー。どうその違和感を説明していいもんやら。天皇制についてはつぎねー。

りよさん。
そうですね。難しい問題だと思います。なんていっても、私たちの世代がすでに、受験戦争世代で、そのテーマについての知識が不足しているのです。知識はもしかしたらあるかもしれませんが、体験とか、戦争体験者から聞いたとか少ない。また、戦争についていろいろな意見があってもいいと思うのです。日本はほとんど焼け野原となってしまいました。そこから復興し、経済成長もとげ、戦争の跡はまったくなかったような街の様相です。それにくらべると、ベルリンはまだ戦争で壊れた跡があったり、弾丸の跡がファッサードをぶつぶつと覆っていたり、東西ベルリン人にあったり、西と東でずいぶんと雰囲気が違ったりする体験で冷戦の傷跡が真近に感じられたりします。こういった環境がまだ人々を60年前とそれ移行の思いとしてとどめてさせているのかもしれません。
Posted by bonobono at 2007年03月24日 05:50
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