第二次世界大戦へドイツと日本は同盟となって参加したのだけれど、
戦後処理の仕方がちがう。
謝罪をどのようにしたのかというのがテーマになり、
戦争の話となると、ドイツ人とディスカッションになるのだ。
なぜ、日本は謝罪しなかったのかと。それから、学校での戦争のことを扱う授業について。
よく、ドイツ人から質問されるのは、
なぜ日本はしっかり謝らないのか。
なぜ天皇は最高責任者だったにもかかわらず、なぜ戦犯として処刑されなかったのか。
学校の授業でどうしてあまり戦争のことを扱わないのか。
上の質問に、いつもあまりうまく答えられない。
なぜといえば、こういったビックテーマなのに、一般的に日本人としての共通の考え方が固定されてないからだ。
私は、私なりに考えた答えを言おうとするのだが、それこそ、正直にドイツ語でも私はこう思うのです。。。。。(文章つづく)。。という表現をつかうのだけど、私は。。。思う。って、そんな普通の個人的な意見を言う形式を使う時点で、ドイツ人はすぐにうたがってかかる。ドイツ人は断言する。それは悪かった!と。
とりあえず、戦後処理の2つの方法があったのだ。
ドイツのやり方がよかったのか、あるいは、日本の内部の調和を大切にするやり方がいいのか。
この答えを出すのに、急かすつもりはないし、本当のところどちらがいいのか答えを出すべきではないかもしれない。なぜなら、それぞれに、それぞれの事情があったから。
でも、ドイツの謝罪した行為を考えると
これは、懺悔といっしょの行為ではないか?と思う訳でぇ。
自らの過ちを言語化して、償いを乞う。
ヨーロッパの人が個人主義だというのは、
古く、教会にて懺悔をしてきたからという節がある。
なんといっても、自分が犯した過ちを謝りにいくのだ。
神父さんに聞いてもらうと、すっとすっきり。浄められるというので、
みなやってしまったことに対して、わびを入れにいくのだが。
すっとする効果のみならず、あれは、自分のやった行為をもう一回話し、そして
自らの声で聞くというのが、なにか彼らの自我形成になんらかの役割を果たしたのではないか。
というのをどっかで読んだ事がある。
日本人は、反省するとか好きだけど。
それって、内省のことで、外にアピールするようなものではない。
反省は発言ということを必ずしも含んでいない。
高校のとき、悪い事して、反省文っていうのを書かされたけれども。
日本は文章をかかせることで反省を促し、また内省していくっていうのが多いなぁ。
始末書とかも、そうか。
最近では、よく、テレビなどで、会社などの不祥事に
遺憾に思うって発言があるけれど。それってやっぱり、私は。。こう思います。
っていう表現なのよねー。
私が注目したいのは、日本の自我形成について、今どーなんだろうということ。
そして、
懺悔が結果として、ヨーロッパの自我形成をはやく育て上げたこということ。
この記事へのコメント
確かに、とても難しいテーマですよね。
「なぜ」と言われても、そもそも学校で習った分だけでは、そのテーマについての知識が不足しているような気がします。
だから、ちゃんと答えられないのでしょうか…。
今後の教育体制も含め、私たち日本人はいろいろ考えていかなければいけないですね。
りよさん。
そうですね。難しい問題だと思います。なんていっても、私たちの世代がすでに、受験戦争世代で、そのテーマについての知識が不足しているのです。知識はもしかしたらあるかもしれませんが、体験とか、戦争体験者から聞いたとか少ない。また、戦争についていろいろな意見があってもいいと思うのです。日本はほとんど焼け野原となってしまいました。そこから復興し、経済成長もとげ、戦争の跡はまったくなかったような街の様相です。それにくらべると、ベルリンはまだ戦争で壊れた跡があったり、弾丸の跡がファッサードをぶつぶつと覆っていたり、東西ベルリン人にあったり、西と東でずいぶんと雰囲気が違ったりする体験で冷戦の傷跡が真近に感じられたりします。こういった環境がまだ人々を60年前とそれ移行の思いとしてとどめてさせているのかもしれません。